添乗員として行った海外

アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、スイス、オーストリア、イタリア、スペイン、スウェーデン、ノルーウェイ、フィンランド、ギリシャ、オランダ、中国、台湾、韓国、香港、インドネシア、オーストラリア、メキシコなどなどへ添乗してきました。そこで私がまた行きたいなと思うところをご紹介できればと考えています。

ツタンカーメン王のミイラ一般公開始まる

ツタンカーメンについてウィキペディアよりご紹介
ツタンカーメンの ヒエログリフ表記ツタンカーメン(紀元前1342年頃 - 紀元前1324年頃、在位:紀元前1333年頃 - 紀元前1324年頃)は、古代エジプト第18王朝のファラオ(王)。より厳密な表記ではトゥトアンクアメン(Tut-ankh-amen)という。
人物
生まれについては、はっきりしておらず、アメンホテプ3世の子、スメンクカーラーの子と諸説あるが、アメンホテプ4世(アクエンアテン)と側室キヤの間の子という説が有力である。アクエンアテンの生存中、唯一神アトン信仰が説かれていたためにトゥトアンクアテン(アトン神の生ける似姿)と名乗っていた。アクエンアテンの死後、即位すると伝統的な神であるアモン=ラーの信仰を復活させ、トゥトアンクアメン(アモン神の生ける似姿)と改名した。また、首都をアマルナからテーベに戻した。在位中、王妃アンケセナーメンとの夫婦仲は良かったといわれている。その後若くして死に、王家の谷に葬られた。ツタンカーメンの死後、王位は王家の血を引かない大臣や将軍たちによって引き継がれてゆくことになる。
ツタンカーメンはアクエンアテンの政策を大幅に覆したが、即位した時点でまだ年端のゆかない少年であったことがわかっており、アメン信仰復活やその死について様々な推測が語られ、歴史のミステリーとされている。2005年1月に、ミイラの調査が行われた。
ツタンカーメンの墓
王家の谷にあるツタンカーメン王の墓は、1922年11月26日にイギリスのカーナヴォン卿の支援を受けた考古学者ハワード・カーターにより発見、発掘された。ツタンカーメンは王墓としてはきわめて珍しいことに3000年以上の歴史を経てほとんど盗掘を受けなかった(実際には宝石の一部などが抜き取られていたが、副葬品自体は無事だった)、王のミイラにかぶせられた黄金のマスクをはじめとする数々の副葬品がほぼ完全な形で出土した。
その発掘は世界を大いに驚かせた。発掘のスポンサーとなったカーナヴォン卿が墓の公開直後に急死するなど、発掘関係者が次々と不遇の死を遂げたとされ、ファラオの呪いの伝説が広まっている。だが、実際に不遇に死んだ関係者は少数であり、更にその多くがこじつけといえるようなものであったため、呪いの話はロンドン・タイムズに報道を独占させたカーナヴォン卿に恨みを抱いたマスコミの創作に過ぎないとされている。
また、ファラオのミイラに大きな外傷があったことから暗殺説を裏付けるものと注目されたが、いくつかの傷は20世紀前半当時のミイラを文化財として大事にしない風潮のために発掘時につけられたものであったことが明らかになっている。
ツタンカーメンのミイラと、黄金のマスクをはじめとする数々の副葬品はエジプトに残された。そして、黄金のマスクや純金製の第3人型棺をはじめとする副葬品の大半は現在はカイロにあるエジプト考古学博物館に収蔵されて観光客に公開されている。
ツタンカーメンのミイラ
ツタンカーメンのミイラは現在、王家の谷のツタンカーメン王墓内で眠りについている。防腐処理の際の樹脂が化学反応によって変質したため、ミイラの保存状態はかなり劣悪であった。しかも、発見後、ミイラの包帯が解かれてしまった事も保存状態の悪化に拍車をかけることとなった。包帯を解く際にも、多くの外傷がミイラに付けられ、さらには脊椎が切断され性器までもが消失した。 2007年11月、初めてミイラが一般公開された。王墓内の黄金の石棺から、同じく王墓内に設けられた気温や湿度を厳重に調整できるプレクシグラス(軽く透明な合成樹脂)製の展示ケースの中に移され、保存状態が比較的良い顔と足先の部分を覆っていた布は取り外された。
2005年1月、CTスキャン撮影などによってミイラの調査が行われ、棺からミイラが取り出されたが、この時の貴重なミイラの映像は国際的に注目された。調査により死亡推定年齢が17〜20歳であることが明らかになった。身長は165pで体格もかなりの華奢であることがわかった(ツタンカーメンの身長は古代エジプトの成人男性の平均身長とほぼ同じであった)。しかし、死因については死につながる傷が発見及び特定されたものの、事故死説か他殺説かの論争に決着をつける事まではできなかった。
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posted by 添乗員 at 12:11 | エジプト